引用元:amazon.co.jp
ヴィム・ヴェンダース監督の西ドイツ・フランス合作映画
ロサンゼルスで妻と、兄の残した男の子の三人で暮らしているウォルト(ディーン・ストックウェル)
4年前に姿を消した兄のトラヴィス(ハリー・ディーン・スタントン)が「テキサスで倒れている」という知らせを受け、現地に向かう
ところがテキサスの田舎町まで駆けつけたところ、そこに兄の姿はなく
「今朝居なくなった」
と告げられる
車を持たない(近くに駅などない)兄の姿はほどなくして見つかり、ロスに連れて帰ろうとするも、目を離すと逃げようとするし何しろずっと口をきかない
やっとの思いで空港に連れていくも、トラヴィスは飛行に乗ることを頑なに拒み、仕方なくふたりはレンタカーでロスに向かう
1984年の作品
飛行機の中で煙草を吸っていたり、ピックアップトラックの荷台に子供を乗せて走ったりするシーンに時代を感じる
「飛行機の禁煙化」の実現は意外に遅く、本作から10年後の1994年にデルタ航空が全面禁煙にしたのが始まりとか
機内での喫煙の是非はともかく、映画として「絵になるシーン」が観られなくなるのは少し淋しい
ちなみに本作に関しては「どこが良いのかわからない」という声と共に「身勝手なトラヴィスが許せない」という声を聞くことがある
好みの問題だから意見が分かれることもあるし「好き嫌いはいくら話し合っても分かり合えない」という原理原則(?)からは本作でさえも免れられない
「娯楽作品のストーリーにリアリティを求めても息が詰まるだろうに、、」と思ってしまうけれど、「映画に何を求めるのか」という基本姿勢が違うのだから理解し合うのは難しい
コンプライアンス全盛の昨今、トラヴィス的なキャラクターには分が悪い世の中ではあるけれど、「落語の与太郎が愚かだ」と言うような声に作り手はどこまで対応すべきなのか
たまに自分が逆の立場に居るのを感じるケースもある
好みの作品ではない、或いは特定のシーンが悪い意味で気になって仕方がない場合
その時には(少なくとも自分の意志で観始めたのだから)と黙って最後まで観るかギブアップする、あくまで黙って立ち去ることにしている
脱線ついでにもう少し書くと、ここ数年
「説明がつかない」
という表現がひっかかる
あらゆるものに説明が求められる圧迫感、或いは「説明が出来さえすれば良しとされる」ことへの(大袈裟に言えば世の中に対する)抵抗感
感覚や推測だけでは物事(生活や仕事)は成り立たないことはよくわかるけれど、「何にでも」説明をつけて「これでよし(もう自分に責任はありませんからね)」という風潮はどうかと思う
「言わぬが花」や「みなまで言うな」が許された社会から、何でもかんでも「言わなきゃ伝わらない」へ
どちらが善(悪)ではないけれど、後者が俄然幅を利かせている
30年くらい前に本作を観た時は(ヴィム・ヴェンダース監督よりも)音楽がライ・クーダーだから、ということもあって音楽を聴きながら雰囲気を楽しむことに重点を置いて観た
いわゆる「大人の事情」的なことをぼんやりと「わかったつもり(←随分ぼんやりと)」で鑑賞したのと比べ、今回はストーリーを味わいながら、落ち着いて鑑賞できた気がする
せめて映画くらいは説明がつかない自由があって欲しい