引用元:amazon.co.jp
2006年のアメリカ映画
公開時かなり話題になったこともあって、観ようとは思いながらも、随分と経ってしまった
モロッコ、サンディエゴからティファナ、そして東京という三つのエリアでそれぞれのストーリーが交差する
アメリカ人夫婦のリチャード(ブラッド・ピット)とスーザン(ケイト・ブランシェット)は、過去のある出来事巡って大きなわだかまりを抱えたままモロッコに仲直り旅行(?)をしていた
観光バスで山道を移動中、地元の子供が遠距離から悪ふざけで撃ったライフルの銃弾がスーザンの肩を貫く
そのころ夫妻がサンディエゴに残したふたりの子供(女の子はエル・ファニング)は、長年お願いしているシッターに任せていたが、シッターの息子の結婚式がティファナである日に限っては断られていた
ところが他に選択肢もないリチャードは強引にその日も仕事を押し付けてしまう
仕方なくふたりの子供を連れて(夫妻の許可を取る時間もなく)甥の運転する車でティファナに向かう
東京では聴覚障害を持つチエコ(菊地凛子)は、学校のバレーボール部の仲間と楽しく過ごしながらも、年頃特有のイライラや、二人暮らしをしている父親への嫌悪、社会から正しく扱われないことへの不満、そして母親の居ない寂しさを感じていた
ある日、チエコの自宅に警察が父親(役所広司)に面会を求めてやって来る
猟を楽しむ父親がモロッコを訪れた際に現地ガイドにあげたライフルが殺人事件に使われた可能性があるという
何年も観なかったのは長尺ということ、そして本作に対して賛否があるということ、日本が舞台のストーリーを含むオムニバスということなどがどこかで引っかかっていたのだろう
しかし「TOKYO!」や「フラート」でも東京のシーンでの違和感は経験済みだから、さして期待せずに鑑賞したところ、先述の二作品ほどの違和感もなかった
また(この手のオムニバスでよくある)各ストーリーに関連性を持たせようとして多くのエピソードが差し込まれることもなく、三つのストーリーの交差を自然に楽しめた
映画作品を現実視点で評価する気はないけれど、登場人物の多くが「あり得ないくらいのアンラッキーに見舞われてしまった」印象は、それぞれが途中に存在するステップのどこかで選択ミスをしているのが理由だと感じた
「未必の故意」的な判断を、あたかも不可避な状況だった(或いは完全に無意識)かの様に、サラッと描くテクニックは、映画を撮る上で必須なのかもしれない
旅先に選ぶのは、リゾートよりも文化的な刺激を受けられるところが好みではあるけれど、何も考えずに行動できた若い頃と違って「行きたいけれど(怖くて)行けない」国が増えてしまった気がする
年齢のせいだけではなく、世界の治安状況も大きく変化しているのもあるしなあ、、